長崎かすてぃら---室町末期、南蛮貿易が盛んだった長崎に渡来したポルトガル人が 伝えた「パオン・デ・ロー」がそのルーツ。ポルトガルでは今も変わらず最もポピュ ラーなお菓子の一つです。
実はポルトガルにカステイラ(又はカステラ)というお菓子はありません。当時スペ インの王国カステイラのパンとして紹介され長崎の人達は、その国の名だけをとって 「かすてぃら」と呼んだという説や、卵を泡立てるときに「カステロ(城)」の屋根の ようにつんと立つまで泡立てるようにと「カステロ、カステロ・・・」と呪文のように 唱えていたのを聞いてカステラと呼ぶようになったという説もありますが実際のとこ ろは良くわかりません。
ただ、卵・砂糖・小麦粉だけで作られた素朴でシンプルなパォン・デ・ローは長崎の菓 子職人の手によって改良を重ねられ、特に明治以降水飴が加えられたことによってあ のしっとり感のある、「長崎かすてぃら」となったのです。日本人の繊細な味覚に磨 かれ、今も職人のたゆまぬ努力で改良され続ける長崎かすてぃらと、5百年以上まっ たく変わらずそのままの形で愛され続けるパォン・デ・ロー。両国の国民性をよく現し ている気がします。
長崎かすてぃらポルトガルに里帰り
ある日曜日、お気に入りのTV番組「海の向こうで暮らしてみれば」を見ながらいつものようにカステラの仕込みをしてた。海外に出て様々な分野で活躍する日本の女性を紹介する番組だがその日私の目は釘付けになった。この日の主役はポルトガルのトモ子・デュアルテさん。夫のパウロ・デュアルテ氏と長崎かすてぃらを里帰りさせるため故郷 のポルトガル・セイシェル市にカステラ工房「Castella do Paulo」を開く準備に日々奮闘しているという内容だった。京都出身のトモ子さんは大学時代旅行した長崎でカステラ、天ぷらのルーツが知りたいと思い立ち卒業後すぐにポルトガル料理とお菓子の研究のためポルトガルに渡った。飛び込みで働いた菓子屋で出会った菓子職人パウロ・デュアルテ氏と結婚。その後日本・ポルトガル友好450年記念行事の一環として、92年から2年間、夫婦で来日。ポルトガル伝統菓子を紹介するため全国を回る一方、全国の銘菓を訪ね歩き、長崎で本場のかすてぃらに出会う。ポルトガルの素朴な菓子が長い年月を経てこんな洗練されたお菓子になっている!と日本人のアレンジの見事さに感動。本場長崎かすてぃらを里帰りさせることを決意。長崎の老舗で2年間の修行を終え、いよいよカステラ工房「Castella do Paulo」オープン間近!というところで番組は終わった。今まであまり興味を持ったこともなかったポルトガルという国が急に近くなった。「これは大変、行かなくては!」と番組が終わった瞬間、私の手はすでに電話にのびテレビ局にトモ子さんの連絡先を聞いていた。ポルトガルのトモ子さんに電話をすると「カステラやいてはるの?!おもろい娘やね、いらっしゃいよ!」と長崎かすてぃらと日々格闘する私に興味を持ってくれたらしく、即私のポルトガル行きは決まった。トモ子さんは自宅の一室を民宿として日本観光客を受け入れ、ポルトガルの食文化を紹介している。その部屋が空くのを待ってその年の暮れも押し迫った12月「和菓子処清野ポルトガル研修?!」が実現した。

96年6月、華々しくオープンした「Castella do Paulo」順調なすべりだしだったのに、市当局からの嫌がらせとしか思えないクレームで店頭での販売ができなくなり、私たちが訪れた頃は締め切った店の奥の工場で細々と、注文のみのお菓子を作っていた。長崎かすてぃらも在ポ日本人、観光客向けのみで保守的な地元ポルトガル人に受け入れられるにはまだ時間がかかりそう。でもおかげで私たちは一緒にカステラ焼いたり、ポルトガルの代表銘菓を食べに行ったり作り方を教わったり、それは充実した時間を過ごした。

帰国後その成果を発表すべく「第一回ポルトガルフェア」を開き、パォン・デ・ロー、パスティシュ・デ・ナタ、ケイジャーダなどを紹介。これが南蛮菓子処清野としてのスタートでした。